傍に居るなら、どうか返事を


 ガツンと派手な音がして、雑誌を被って寝転んでいた大庵は身体を起こす。
それは、楽屋の椅子をリーダー兼ボーカリストが思いきり蹴り上げたせいだと気が付いた。
「何だよ、珍しく荒れてるのか。」
「さあね。」
 プイと横を向く顔は、不機嫌そうに歪み、これから本番を向かえようというバンドのツートップとしては、あるまじき表情だった。
 演奏が上手くいかなかったりすれば、確かにこの男は不機嫌になる。けれど、そんな時には立派に理由があり、それが些細な事でも納得の出来る事が多かった。
 なのに、今はただ苛々と周囲の物に当たり散らしているように、大庵には思える。

「この間まで、上機嫌だったくせに一体どうしたんだ?」
「別に…。」
「別にって顔かよ。良いメロディ持って来てたじゃねぇか。俺は思わず思ったね、ガリュウは恋でもしてるんじゃないかってね。」
 にやりと笑う大庵の顔に、響也は一瞬毒気を抜かれた表情を向けた。
「なんだ、図星か。」
 下に滑らせただけの雑誌は大庵の顔を半分だけ覆っていて、恐らくシニカルに歪められている彼の唇は見えない。しかし、覗く瞳は確かに嗤っていた。

 恋。

 考えた事も無かった言葉を突き付けられて、響也の思考は動かない。
僕が誰に恋をしているって? 有り得ないだろ、それ。

「冗談。」
 響也はハッと息を吐くと横髪を払い右手で軽く指を弾けば、常なる笑顔が響也の顔を覆った。部屋の中心にある簡易な机に腰かけて、その横で仰け反りながら椅子に凭れている大庵の顔を覗き込んだ。
 腰につけた鎖が奏でる音が、効果音のように付いてくる。
「デメリットな恋はなんかしないよ。クールじゃないし、僕も恋人もハッピーでいたいからね。」
「ったく、てめぇらしい言い草だよ。」 
 呆れた表情で大庵は肩を竦めてみせた。「なのに、あの曲かよ。腹立つな全く。」
(天才って奴はこれだから…)そう続けて大庵は再び視線を雑誌に戻す。
 そうして本当に興味を失ったらしく、大庵はそれ以上話題を振っても来なかった。会話もなく、今日に限っては検事としてのはみ出し仕事もない響也は酷く手持ち無沙汰で、思考は考えたくない方向へ流される。先程の会話が終わってから、何度否定に首を横に振っただろうか。
 それすら、苛立ちの原因に見えていたと気づいたのは、大庵が立ち上がった時だ。
「長げぇな、マネジャーに聞いてくるわ。」
 収録が押していて、待機時間が長いのが響也の苛立ちの原因だと考えたのだろう。相棒思いの彼は、響也の不満を少しでも減らしてやりたいと思ったに違いない。


 静まり返った楽屋。隣の部屋は別メンバーが陣取っているはずで、そこから手持ちのキーボードで引き流す曲が聞こえてきた。大庵の言っていた新曲。
 主旋律を奏でるその音が、響也の唇から歌詞を零れさせる。

…っ。

 思わず、赤面して唇を覆った。
書いていた時に、どうして気付かなかったのかと疑問に思えるほど、その歌詞はいつぞやの成歩堂と自分の事だ。
 追い詰められて、好きと告げた言葉に。

 真実は、あるのか?

「あるはず…。」
 ない。 繰り返す否定と浮かぶ想いと。壊れたディスクのように何度も何度も。

 閉鎖された空間に、鈍いバイブレーションの振動が音となって響く。ズボンのポケットに突っ込んだままにしていた携帯が、着信を告げていた。
 発信者として浮かんだ名前に、複雑な気持ちを味わいながら取りだした携帯のサブ画面は、兄の名前を告げる。
 安堵の気持ちが通り過ぎれば、落胆の感情が浮かび、響也は微かに眉を潜めた。

『貴方が欲しがっていた書庫が手に入りましたよ。』

 さっさと出なさいと窘められてから告げた霧人の言葉は、響也にとっては朗報だった。
「え!? ホント? 絶対無理だと思ってたのに、さすが兄貴!」
 声のトーンが上がったのは、霧人にも伝わったのだろう。苦笑するような雰囲気が、携帯の先から伝わってくる。
 しようのない弟だと、兄が思っているのは知っている。一筋縄ではいかない部分もある難しい性格の兄だが、それでも、響也にとっては、困った時には手を差し伸べてくれる優しい兄だ。
『煽てても何も出ませんよ。調子のいい子ですねぇ。
ところで響也、私は今夜から地方へ出張へ出掛けるので暫く事務所を空けます。机の上に置いておきますから、取りに来るんですよ?』
「え?そうなの。じゃあ、兄貴と会える時に渡してくれればいいよ。顔、見たいし。」
『そんな甘えん坊では困ります。さっさと持って返らないのなら、事務員に言って捨ててもらいますからね。』
 綺麗好きの兄は、自分の趣味以外の品を身辺に置く事を、極端に嫌う。ぴしゃりと言い放たれれば、響也の方が折れるしかない。
「わかった行くよ、兄貴。ありがとう。」
 取りあえず、礼を言い携帯を切る。兄が不在の時ほど、成歩堂は留守番と称してあの事務所にいる事が多いのを響也は知っていた。行けば、顔を会わせる確立は高い。
 ふっと息を吐いて、響也は椅子も凭れ掛かる。

 一体何を気にしているんだ。

 成歩堂はからかっただけで、男である自分は、そんな相手が苦手なだけ。
 もしも、これが恋ならば、自分はツッコまれても良いと思ってるはずだ。そんなの願い下げに決まっているし、相手にツッコミたいとも思わない。結構病みつきになるほど気持ちが良いなどと言ってくるゲイの友人もいたが、それで動く気持ちならただの好奇心に違いない。
 嗚呼、やっぱり。
 繋がる理論にほっと胸を撫で下ろして、響也は緊張していた身体から、やっと力を抜いた。 


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